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不気味な世界

私たちは子供時代に、
自分が体験していることに
身近な大人や兄弟などが共感してくれて、
感情を共有していく経験を通して、
自分の中にある、感情、欲求を知り、
確かなものとして体験することを覚えていきます。


そして、この体験は、私たちの感情、欲望に意味を与えて
言葉で表現する力を私たちに与えてくれるのはもちろんですが、
そのことよりもっと重要なこととして、
自分が確かに自分の内側に感じている「この感情」、「この欲望」
に対する肯定感、安定感を私たちに与えてくれ、
ひいては「自分自身の存在」や「世界」に対する信頼を
培ってくれる体験となります。


しかし、往々にして、何らかの事情で、
(これは、程度や種類の差こそあれ、決して稀なことではないと思いますが)
保護者に、子どもの感情に対する共感能力やその余裕が不足している場合、
または、保護者自身が大人として自身の感情を適切に感じて
現実的な対応をする能力に欠けているような場合があります。


たとえば、
父親から母親に対する激しい身体的な暴力が繰り返されていて
それも、その阿鼻叫喚に、子どもは毎日曝されている。


子どもはそれが恐ろしくて仕方がないけれど
それを言葉にすることも許されず、恐怖に圧倒されてしまう。
ところが、さっきまで死ぬの殺すのと罵りあっていた両親が
ことが終わるとまったく普通の顔に戻って
何事もなかったかのように日常生活に戻ってしまう。


自分は、お母さんが殺されてしまうのではないかという心配と、
暴力をふるうお父さんに対する怒りで一杯になのに、
お母さんの方は、そんな目に遭っていながら
一向にお父さんと別れる気配もないどころか
さっき自分を殴ったお父さんに対して
次の瞬間には媚態を売っていたりする。


このような時、その子は混乱します。
自分の小さな身体の中に確かに
爆発しそうに一杯にあふれ返っている
恐怖や怒りや不安の感情に確かな意味を与えて
自分の中でその感情を適切に処理することが
できなくなってしまうのです。


この時その子は、自分のいるこの世界を
非常に不気味な恐ろしい世界として体験します。
意味が意味として成立しない世界。
不条理の世界です。


このような場合、喧嘩そのものが悪いのではなく
そこに適切な意味づけが誰からもなされないこと、
その子にとって世界が理解不能なままで
何の説明も与えてもらえないことが問題なのです。
(全くその子の実感とはかけ離れた説明を与えられる場合もあります)


もちろん、子どもは言うに及ばず、大人でも、
激しい身体的、言語的な暴力の場に曝されることは
それ自体が心的外傷体験になり得ますが、
その際に、自分の体験に、
もし適切で納得のいく意味や感情が与えられれば(悲しみ、怒りなど)、
それは困難を乗り越えるための大きな救いになるものです。


少し考えればわかることですが、
このような場合は、この状況を作っている両親その人たち自身が
自分が感じている筈の怒りや不安などの感情を自分のものとして
適切に感じる能力が育っていないことから、状況に対処できていない。
そのため、自分たちでもどうすることもできず、
同じ行動を繰り返してしまっているというパターンが生じています。


注:今回は比較的外からもわかりやすい例を挙げましたが、
一見したところ何も問題がないような家族でも
子どもの混乱は大きい場合もあり、
バリエーションは星の数ほどあります。


2009.11.10.