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現実感


この度、東日本大震災で被災された方々、
自らの大切な人を亡くされ、
また連絡が取れず不安な時間を過ごされている方々に、
心よりお見舞いを申し上げます。

そして、一刻も早い被災者の救援、皆さんの大切な人との再会、
原子力発電所の事故の少しでも早くまた被害の軽い状態での終息、
そして、被災地および日本全体の復興を、今は祈るばかりです。


先週、地震が起きた当日、
東北地方の津波被害の被災地の状況を伝える報道は、
空(おそらくヘリコプター?)からの映像からはじまりました。
津波の大きな濁流が広い平野に拡がる大きな市街地を
ものすごい勢いで一気に押し流し、呑み込んでいく映像。
目を凝らしてよーく見ていると、
今まさに津波から必死で逃げようとしている自動車が
光る小さな米粒のように映っていて、
その最後尾の車が津波の舌につかまる瞬間が分かりました。

ちょっと考えれば、その見渡す限り拡がった平野には、
何十、何百、…もしかすると何千という「人」がいて「生活」があるに違いない…
そう頭では分かっていても、上空からの映像が遠いのと、
そのあまりにも想像を絶する状況に、現実的な感覚を持つことができず、
ただ茫然とテレビ画面にくぎ付けになっていた…
被災地以外の地域に住む人々の感覚は
そんな感じだったのではないでしょうか。

もちろん、自分に近しい人が
その被災地にまさにいる筈だということが分かっている場合は、
その映像はまた、まったく違ったものに見えたでしょう。
しかし何故か現実感がない、何か映画でも見ているような感覚は、
それでもやはりあったかもしれません。


それから1日、2日と経過し、
陸路で被災地に報道が入ることができるようになりました。
そうなって初めて、遠くでテレビを見守っている人間にもやっと、
何が起きたのか、起きているのかが、
少しだけリアリティをもって理解できるようになる。
例えば、被災した人自らその瞬間に撮影した映像から、
被災者の目(体験)を通して、
何が起きたのかが感覚として少し分かったりします。

また、現地に入ったマスコミの報道から、
被災者の皆さんの、喪ったものの大きさに立ちつくす姿、
肉親を必死で探し求める姿、などが報じされるようになることで、
テレビのこちら側で見ている私たちは、
そのことを我がことのように感じ、
被災者の苦しみはどれほど深いかと思うだけで、
切なくなり、テレビの前で涙してしまう。


しかし同時に、大勢の被災者自身がインタビューの中で、
「信じられない」「いまだに現実だとは思えない」
「悪い夢でも見ているようだ」などと語っているように、
自分自身の目の前でまさに繰り広げられた出来事に対しても、
私たちは何か現実感を失ってしまうことがよくあります。

むしろ体験した出来事が衝撃的であればあるほど、
その人にとって耐えられないものであるほど、それは起こる。
自分が実際に体験しているのだという感覚が失われてしまう。
…「しまう」というよりは、私たちの心は「よく出来た自然な働き」で、
そのように、過度に強い衝撃を直接受けて
壊れてしまわないように作られているようです。

しかし、この「現実感が失われた」ままの状態は、
私たちの心から生き生きとした感覚や喜びをも失わせてしまうので、
その「緩衝機能」も、
一時的に衝撃から身を守るためには非常に有効ですが、
そのままでいることはその人に別の大きな苦痛をもたらします。

今回のような「目に見えるハッキリとした災害」に遭っていなくても、
私たちが「心の問題」で悩んで相談機関に足を運ぶ時、
何らかのそのような現実的な心の感覚を
遮断していることが少なくないように思います。
ただ一方で、「頭では」現実が「分かっている」から、
日常は普通にこなしてはいる。
普通にこなせていはいるんだけど、何か現実感がない。
そして、そのことで結果としては、生きること自体に困難を抱えてしまう。

その、「頭の理解」とは別の「心の生き生きとした現実感」を
ゆっくり時間をかけて安全に取り戻していく作業は
カウンセリングの作業の中のひとつだと思います。

2011.3.16.