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虐待ということ


「児童虐待」と一言で言っても
その幅は非常に広いものです。


「虐待」という言葉の持つ響きや
マスコミが報道する事件の印象から
一般には、殴る、蹴る、熱湯を掛ける、
火のついた煙草を押しつけるなどの身体的な暴力が
その一般的なイメージですが
虐待的な子育てとは
「子どもが自立していく力を奪うような子育て」
という風に考えると、
私たちの大人になってからの生きづらさについて
考えていく上でとても分かりやすいかもしれません。
そして、虐待の世代間連鎖などを考える上でも
おそらく非常に役に立ちそうです。


小さな子どもにとって
両親、またはそれに匹敵する大事な養育者の立場にいる人と
その人たちが提供してくれる家庭は
「世界」そのものです。
子どもたちは、両親とのやりとりから
自分が生を受けた「この世界」というものと
自分自身というものが
どういうものかを学んでいきます。


例えば、もし、たまたま両親が心に余裕の無い状態で
自分自身が強い劣等感や不安感に苛まれている場合、
小さなストレスにも落ち着いて対処できなくて
依存症になってしまったり、
激しい夫婦喧嘩を繰り返して
暴力と怒声の絶えない家庭であった場合。


逆に、例えば、
両親自身が、自分たちの前にある問題、
例えば、夫婦間の葛藤の解決など
最初から自分たちには可能だとはまったく思えず、
そのために、ある筈のストレス自体がまるでないかように
現実とはかけ離れた妙に明るい状態で
無理やり日々を送ろうとしたりする場合。


または、日々は粛々と無感情に進められ、
一見、平和に何事もないかのような毎日だけれど
誰もが心ここにあらず状態で
自分の苦しさを感じないようにやり過ごしている場合。


両親の中の不全感を解消するために
子どもに自分たちの期待をかぶせて
「優秀」だったり「幸せそう」だったり
「明る」かったり、する子どもを求め、
子どもたちのそれ以外の側面は
どんなに訴えてもスルーしてしまったりする場合。


両親が子どもたちに必要とされていることで
自己価値観を高めようとしていて
「だからやっぱり私がいないと駄目なんだ」
「あなたは私のいうことを聞いていないと上手くはいかない」
と、事あるごとに子どもに言い聞かせている、
または自分たちの必要からでる世話焼きや甘やかしという行動で
子どもたちの自立する自信を奪ってしまっている場合。




子どもたちは、この世界の中で
自分の存在は大切に思われないのだと感じ、
不安や怒りで一杯の両親をなだめることで
初めて自分の存在価値が生まれるのだと学び、
本当の自分の姿などには誰も興味がないことをさとり、
両親が求める自分を演じてそれが自分だと思い込んだり、
世の中というのは思ったことをそのまま口にしてはいけない場所だとか、
信じたり甘えたりすると危険な場所だとか、
男というものは女を馬鹿にして踏みにじる生き物だとか、
自分が誰かを頼ろうとすることで相手に弱みを見せることは
非常に危険で相手に力を奪われてしまうことだとかいうことを、
この世の掟として習得していってしまいます。




そして困ったことに、これらのことは
頭で考えて言葉で教えられたり身につけたりするものとは違って
ほとんどが日々の生活の中で、
意識もしないうちに摺りこまれていくのです。
空気のように当たり前すぎて意識できない状態だったり、
言葉の上では真逆のコミュニケーションがとられていたりするのです。


(HPに書くために上に「言葉として」書いていますが、
実際にはこれらのことは大抵、
意識されずにただ行動として表現され
次の世代へのバトンとして手渡されます。)


私たちがこれらの「虐待の連鎖」に対抗するには
親としての自分でも、子どもとしての自分でも、
まずは自分の中の不安や怒りや悲しみなどに向き合って
それを感じて言葉にしていくことです。


何か分からないモヤモヤには対処できませんが、
言葉として名づけられ、感情を同定できたモノに対してなら
私たちは苦しくてもそれを「扱う」ことが可能になります。


2010.12.16.