watashitachi_ga_ushinatta_mono

私たちが喪ったもの

東日本大地震発生から20日が経とうとしています。
普通の当たり前の生活、何でもない当たり前の昨日と今日と明日…
3月11日の午後3時少し前、突然、そんな毎日に大きな亀裂が入って、
当たり前の毎日が当たり前に来ないという事態に私たちは曝されました。

東北地方で大きな震災、津波、原発事故に直接被災され
大切な人や、家屋や、畑、職場、学校、村、町…を
一瞬で喪った方は、震災発生の当日からずっとこの方、
何が何だか分からない中で無我夢中だったのではと思います。

おそらく人によっては、大なり小なり、あの日を境に昨日までの毎日が、
今日とつながると言うことが思い出せないような状態。
昨日までの日常が本当にあったことだったのか、
また、今、自分が生きているということが本当のことなのか、
何か、感覚が麻痺して、上手く思い出せない、実感がない、
時間が止まってしまったような感覚があるかもしれません。

そして、大切な人を亡くした人は、
大きな悲しみと同時に、時として、大きな罪悪感に苛まれてしまう。
「あの時、私が傍にいながら、どうして何も出来なかったんだ。」
「自分がお使いさえ頼まなければ、こんなことにはならなかった。」
「どうしてあの時、引き止めなかったんだろう。」
人間の力ではどうすることもできなかった自然の理不尽な猛威。
人は自分が受け止めきれない「喪失」を前に、何も理由がないより、
自分を責めてでも、何か納得のできる説明を求めます。
「自分のせいだ。」「自分があの子を殺したんだ。」と、
やり場のない怒りの矛先を自分に求めます。

直接誰に対してということだけではなく、
戦争や大災害などに見舞われ、大勢の人の命が喪われた時、
人は、自分が生き残ったと言うだけで、
強い罪悪感を持つことがあります。
「なぜ、彼でなく、この自分が生き残ったんだ?」…というように。

程度は比べようもないかもしれないけれど、
表面的には大きな被害は無かった東京近辺にいても、
多少なりとも皆が同じようなことを感じていたのではないでしょうか。

昨日までの当たり前の日常が失われて、
今、何をすればいいのか、今までどおりでいいのか、
こんなことをしていていいのか、やるべきことが手につかない。
落ち着かない。…何かをしないといけないと思う。
こんな時に自分が毎日を楽しむことは不謹慎な気がする。
東北の人は大変な思いをしているのに、
今の東京の生活で、不満を持ったりするのは間違っている。
…自分が何かを我慢すること、感情を抑えつけることで、
贖罪するような心理がそこにはありそうです。


日々報道される被災地の状況、原発事故の行方、
日本という国の未来…放射能、経済状態、失業の問題、そして日々の生活。
「復興」に向けて今何をすべきか…私たちには次々に考えなければいけないことがある。
確かに、私たちは、こんな状態でも(こんな状態だからこそ)、呆れるほどに、
一日も休むことなく生活し続けるしかない(ある意味ありがたいことですが)。
飲み、食べ、働き、移動し、壊れたものを片付け、新しいものを積み上げる…。
ぼんやりしている暇もない。

だけど、実は、私たちがそれぞれ自分自身が喪ったものとどこかで向き合い、
こんな中でも、今回の理不尽な出来事への恐れや不安や、悲しみ、怒りなど、
この間に自分が体験した感情を、それとして感じることがとても大切なのです。

「無理に鼓舞する元気」ではなく、「どこかの誰かの心配」ではなく、
「なんとなく漠然とした罪悪感」や「苦しくても気丈に振る舞うこと」でもない、
自分の中に「自然に」「確かに」湧きあがってきていた感情を、
「自分自身のもの」として受け止めてあげることを私たちは必要としています。

そうしないと、
昨日と今日の時間の裂け目に落ち込んで出られなくなっている自分を、
喪った大切な何か(誰か)と一緒に置き去りにしてしまうことになりそうです。

2011.3.30.