iiko-ni-shite-tara

「いい子」にしてたら

ちいさな子どもだった時代、
私たちは、ツライ気持ちを「なだめる」すべを
少しずつ学んでいきます。

周囲の大人に教わって学ぶこともあれば、
誰も教えてくれなければ自分で自分をなだめる方法を
いつの間にか習得していく場合もあります。

例えばその中には、
「ワガママを言わずにいい子にしていたら」
というなだめ方があります。

確かに、何か「どうしても今すぐ欲しい」と暴れる子どもが、
しばらくの間我慢することを覚えるのに、
こういうなだめ方は役に立つ時があります。
(「アイスクリームはご飯を食べてから」とか、
「注射ができたら、ご褒美にジュース」とか。)

ただ、しばらく我慢すると叶えられると分かっている事なら
その方法は意味がありますが、
願いがかなう希望が大人にも分からない時に
(例えば両親の不和や大人の世界での様々な問題)
その場しのぎに使われてしまった場合、
その我慢は、際限なく求められることになり、
また、「願いが叶わないのは、自分がいい子ではないから」という
本来、ツライ出来事とは、まったく関係のない、
「子ども自身が自分を責める気持ち」を誘うかもしれません。
(子どもが小さいほど、そのような傾向は高いものです)

このようなことは、周囲の大人が、
子どものツライ気持ちに付き合いきれず
苦し紛れ、その場しのぎ、に、良かれと思って
慰めるつもりで言う場合もあるでしょう。
(「○○ちゃんはいい子だから、きっとお母さんは帰ってきてくれるよ」など)

または大人自身が自分の問題を抱えきれずに、
それを子どもに八つ当たりする格好で言うこともあるでしょう。
(「あんたが無駄遣いばかりするからお金がない!」など)

また、子ども自身が、
周囲の誰にも気持ちを話せないような状況で、
ひとりでツラさに耐えようとした時に、
心の中で生みだし、育てていく
「おまじないの言葉」のようなものとして、
いつの間にか大きく育っていくことがあるようです。

その子は、身の回りにツライことが起きないように、
必死でいつも「いい子でいよう」とするかもしれません。
(本当は、ツライ出来事は、そんなこととは関わりなく起きるのですが)

実際に、その子が学校でいい成績を取ったり、
両親を楽しませるために家事を頑張ったり、明るく振る舞ったりすることで、
時には苦しさが少し和らぐような気がすることもあるかもしれません。

次第にその子は、
自分の周囲でツライこと、悲しいことが起きた時にはいつでも、
「自分がいい子じゃなかったせいだ」とショックを受け、
「もっと頑張ろう」と心に誓うようになるかもしれない。

「いい子にしていたら」は、魔法の言葉。
そうしたら、「いつか」「きっと」夢が叶う。

それがいつなのかは分からない。
どこまで頑張ればいいのかも分からない。
でも、「努力すればきっと」「我慢すればきっと」
ある日、その時が来る、という希望をくれる。
あの両親も反省して、自分のことを振り向いてくれる。

自分が頑張れば、みんなを幸せにしてあげられる。
自分にはその大きな使命がある…。

漠然としていて際限のない不安。
常にすべての出来ごとに責任を感じ、責めさいなまれ、
どこから手をつけていいのか分からない徒労感。
やみくもに頑張ってみても、限界がある。
本当はまったく自信がない…。

途方に暮れて、疲れ果てた自分がグッタリしていると、
また、心の中から叱咤することが聞こえる。
「私がこんなにダラシナイから、上手くいかないんだ」
「頑張れないお前は生きている価値はない」

「いい子にしていたら」「頑張ればいつか」
その魔法の言葉は、
誰も頼れる大人のいない環境の中を生き延び、
ひとりで頑張った子ども時代には
とても役に立ったかもしれません。

でも、もしかすると、
今、その「おまじない」を捨てられないために、
大人になったあなたは、
自分の将来を現実的に考えることが
上手く出来ない状態にはまりこんでいるかもしれません。

2012.1.17.