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「底尽き」ということ


依存症(アディクション)の治療や回復に関しては
一般的でない風変わりな言葉や言葉の使い回しが結構ありますが、
そんな中に「底尽き」という言葉があります。

アルコール依存やギャンブル依存、買い物依存などの
いわゆる「依存症」にハマった人は、必ず、
自分が依存症であることをなかなか認めず、
そんなもの自分の意志で何とでもなると言って素直に治療に繋がらない。
または依存症だと頭では理解している風で、口では認めていても、
まだまだ本当に追い詰められて困った状態にならないうちは
「今度だけ」「次は止めるから」「自分で何とか出来るはず」と
同じ行為を繰り返すものです。

しかし、それがいよいよ、社会的な地位や財産を失ったり、
最愛の家族から見放されたりという高い代償を払い、
依存症のために健康を大きく損なったり、
泥酔してとった行動で命を落としかけたりして、
事態の深刻さに目を向けざるを得ないところまで追いつめられると、
初めて本気で自らの依存症と向き合う準備ができる。
この言葉はそのような時に、
「その人は底を尽いた」というように使います。

それがやってくるタイミングは人それぞれ違います。
最期まで「底は尽か」ずに、
「依存症だと認めるくらいなら死んだ方がマシ」とばかり、
命を落とすところまでいってしまう方もたくさんいらっしゃいます。

一般的に「依存症」というと、
世間では、
意志が弱くて甘ったれている人、
だらしがなくて自分本位の人、などと思われがち。

ですから、「底尽き」というのは、
有体に言えば、そういう自分勝手でわがままで甘えた根性の人が
「本当に痛い目をみて」「つくづく懲りた」
「やっと目が覚めた」「心から反省した」状態と
当の本人にも周囲にも考えられていることが多いようです。
痛い目(=罰)に懲りて、もう嫌だと、もう懲り懲りだという状態、
…懲らしめられた状態と言いますか・・・。

しかし、身近で依存症の方々と接していると、
何かそういうこととはちょっと違うような気がしてきます。

第一、 よくよく考えてみると、この場合、不思議なことに、
本人を「懲らしめて」いるのは、実は、誰あろう本人自身です。

飲酒も薬物も買い物も、
最初のうちこそ楽しかったかもしれませんが、
依存症がある程度進行してしまった状態になると
それを繰り返すことは、傍から見ていて難行苦行以外の何物でもない。
まったく楽しそうには見えないのです。
周囲から見たら目を背けたくなるような悲惨な状態になりながら
撤退するということを知らない。
「意志が弱い」という風にはとても思えません。
むしろ、呆れるほどの頑張り屋(頑張る方向はともかくとして)。
弱音を吐く、甘える、降参するという、人として大切な機能を
失ってしまった(持ち合わせていない?)人たちにさえ見えます。

(また、その隣には、やはり、本人に輪をかけて辛抱強く
頑張り屋で、意志の強固なパートナーがついているのが
よくあるパターンのようです。)


そんなことを考えると、「底尽き」というのは、むしろ、
それまで自分自身をどうしても許せなかった人が、
自分もしんどかったら甘えてもいいこと、
そこまでして頑張らなくてもいいことを自分に許す、
人並みに自分に優しくしてもいいんだという風に
自分に向かって許可を与えてあげられるようになるための
ターニングポイントだという風にも理解できます。

そして、もしそうだったとしたら、この回復への道程では
何も必ずしも「痛い目をみる」ことが重要なのではないような気がしてきます。

むしろ、その人が、自分自身、激しい抵抗感(恐怖)を感じている、
「甘えること」「自分を許すこと」への困難なルートを
どう安全に探っていくかが重要なのだと思われます。

2009.6.29.