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適応ということ ―環境vsわたし―


ここでいう「環境」とは主に
その人を取り巻く人間関係のことです。


私たちが心理的な悩みを抱える時には
大抵、人間関係についての
何らかのストレスが関わっています。


例えば、「受験の合否についての悩みであって
友人関係などは関係がない」と言う場合、
直接的な個人は意識に上っていなくても、
やはりそこには何らかの周囲の期待や評価、
社会の中での自分の位置取りなどの問題が
密接に関わっていたりするわけです。


私たちは、日々、人的な環境の中で
様々な葛藤を抱えて生きているのです。


そういった文脈で訴えを翻訳すれば、
多くのクライエントが何らかの形で
「“環境”に上手く適応できない」
ことを苦にして相談にみえていると言えます。




ここでカウンセラーが絶対に心得ていなければならないのは、
環境、世の中、社会、世間…と言ったものを
不動のもの、絶対的なもの、善なるもの、
という前提で考えることの危険性の大きさでしょう。


大勢の人から構成された環境の中で、
クライエント自身もまた、ひとつの主体として
周囲と関わりを持ちながら生活している。


クライエントが「うまく適応できない」と訴える時、
それは単に「自分は大きな葛藤を抱えているが
それを自力でうまく扱えるとはとても思えない。」
という状態なのだと思います。


そして、大抵のクライエントはそういう場合、
そこから直線的に
「苦しい。しんどい。この葛藤を無くしたい。」
という発想になっている。
「無くす」には、そもそもそんな葛藤を抱えてしまった
イケナイ自分を抑えつけて「亡き者」にしたい。


(これは字義通り“命を抹消したい”ということにまで行きつく場合が
ありますが、そこまで行かなくても、心を殺す、感情を抑えつける、
自分の心を持たずに周囲に都合のよいロボットのような人間になりたい…
などのことまでを含んでいます。)


ここでカウンセラーがクライエントの言葉に乗って
「如何に周囲との葛藤を生じないように“上手く”やっていくか」
の相談だと勘違いしてしまうとトンデモナイことになる。
「もっと適応的になれるように」とカウンセラーまでもが
せっせとクライエントの心を殺すお手伝いをすることになってしまうのです。


(実際、多くの医療関係者、教育関係者、親、兄弟、親戚、上司等々、
善意の人々が良かれと思って、それまでにもさんざん、
そのようにご本人に働きかけてきているはずですが、
あろうことかカウンセラーまでもがその末席に名を連ねてしまう。)


でも本当は、
何らかの不適応、生きづらさ、怒り、「なんか変だ」という感じ。
それはその人がこの世に生きている証のようなもの。
ただ、相談にいらっしゃる方は、それに気づかず、
むしろその扱いに困っている。


だから、
クライエントが、ご自身の抱える葛藤、悩みに向き合って、
その葛藤が抱えるパワーの有効活用ができるように。
“環境”の中の“わたし”の存在の持つ“確かさ”を実感できるように。
…お手伝いするのがカウンセラーの仕事なんだろうと、
そんな風に考えています。


2009.5.13.