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「我が子が可愛くない親はいない」?


ここのところ、子どもの虐待をめぐる
痛ましい事件が立て続けに報道されています。

このようにして虐待を受け続けて育った子は、
幼い心に刻まれた恐怖や世界に対する不信感に、
この先の人生でどう向き合っていくのか。

…それでも、周囲の誰かの目に留まって
とにかく生き残ることが出来た子どもには
その先の人生=可能性(希望)を手にできるけれど、
命を落としてしまった子どものことを考えると
多くの人がやりきれなく、
ただただ「なんとかならなかったのか」と
なんとも逃げ場のない苦しさに襲われるのではないでしょうか。

「信じられない」「人間じゃない」
「我が子が可愛くない親などいるものか」
と虐待をした親に対する怒りがこみ上げてくる人も
多いかと思います。

でも、本当にそうでしょうか…。
(時に、または頻繁に)「我が子が可愛くない親」というのは
実は標準的な親なのではないでしょうか。

今回の大阪西区の二児放置死の若い母親は
「子どもを育てるのが面倒くさくなった」
「自分の時間が欲しかった」
「子どもなんていらないと思った」
と言っているということです。
確かに、この発言はあまりにも正直ですけれど、
こう思ったこと自体がこの若い母親の特異な異常さのように
受け取られてしまうことは実は危険なのです

というのも、
本当は、一度もそう思ったことのない親の方が
案外少ないのではないかと思うからです。
「時たまそう思う」ことは極々当たり前で
むしろ健康的なことです。

ところが、こういう事件を誤解して、
そんな母たちの当たり前の感情を世の中が否定してしまうと
本当に生き生きとした子育てがむしろしにくくなってしまう。
それどころか逆に、そのような素朴で硬直した倫理観は
抑え込んで否定された感情のはけ口としての、
虐待の温床にさえなる可能性があります。


ただ、残念なことに、
今回の大阪の事件で、彼女に足りなかったのは
そういう状況で自分には対処しきれなくなった子育てについて、
周囲に相談したり、誰かを頼ったりする力でした。
自分が出来ないことを許して、
恐がらなくても、逃げたりしなくても、
脅かされずに他力を頼むことができるような
「自分」や「世界」に対する信頼感だったのではないでしょうか。

また、逆の側から見ると
ひとりで子育てするにはあまりにまだ力の不足している彼女を
(確かに彼女は子育てをするには幼すぎたようですが
幼いというのは成長のチャンスもあるということです)
支えてあげる私たちの社会の力がまだまだぜい弱で、
重なる通報があったにも関わらず、
社会が子どもたちを救えるチャンスを
生かすことが出来なかった。


心の問題は、普通の倫理や常識では
上手く解くことができない側面があります。
「虐待」=「ひどい」「悪い」という視点では
問題はどんどん袋小路に入っていってしまう。

問題というものは、大抵、
強い思い込みと逆の発想をした時に
ふっとほどけていくことが多い。
そして、「強い思い込み」というものがあるときには、
それが個人にしろ社会にしろ、
その背景には、自分でも意識化できないような
強い恐怖感や不安感、自責感、罪悪感などが
背景にあることが多いものです。

ひとりでも多くの子育てに悩んでいるお母さん(お父さん)たちが
まずは自分が「悩んで」もいいのだということに気づいて、
カウンセリングや自助グループ、各種相談機関などに繋がることで、
自分の偏った思い込みから解放されることが急がれます

2010.7.31.