Untitled

ゆだねること と あけわたすこと


皆さんは、AA(アルコホリック・アノニマス
=アルコール依存症当事者の自助グループ)の
セレ二ティー・プレーヤー(平安の祈り)を
ご存知でしょうか?

神様
私にお与えください
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを
変えられるものは
変えていく勇気を
そして二つのものを
見分ける賢さを

というものですね。
(ご存じでなかった方もご存じだった方も、
ネットで「平安の祈り」で検索すると
たくさんのサイトがヒットして結構面白いですよ。)

短いけれど、
とても密度の高い言葉のような気がします。

AAはもともとキリスト教文化の中で生まれたので
ここでは当たり前に「神様」となっていて
無宗教の人が多い日本人には少し抵抗があったりもしますが。

しかし、ここでいう「神様」は、
一応、特定の宗教からは切り離されていて
崇拝の対象とするような神様ではなく、
意識の傘下にある「自分」を超えた存在、
個々の人間の力は遥かに及ばない大いなる存在、
というような意味あいで使われているようです。
AAでは「神様」ではなく
「ハイヤーパワー」などと呼ばれることもあります。

私たちが日々、自分自身や周囲に対して
ある程度折り合いをつけて、
まあまあ機嫌良く生きていっている時、
意識していてもしていなくても
こういった存在が心の中に疑いなく感じられている
必要があるらしいのです。


逆に言うと、心身に不調をきたしている時
私たちはどうも、この神様(?)の存在を感じられずに
(ということは自分の拠って立つ基盤のようなものを見失って)
自分の存在そのものについての不安で一杯になっていることが多いらしい。

そして、その不安を「克服」するために、
まるで自分が神様になり代わろうとしているがごとく
必死で自分には変えられないものの責任を取ろうとしたり(共依存など)、
運命にチャレンジして力試しをしようとしたり(ギャンブルなど)
「狂気じみた」行為に耽り始めるらしい。
(「狂気じみた」というのはそれがあまりに現実的でないからです。)

世界が安全でないという不安に取りつかれてしまうと
(人は、生育過程で安全感が得られにくかったりすると
このような不安が強くなりがちかもしれません)、
私たちは、
自らが肥大し神と一体となることで、その代わりを務めようとするか、
逆に自分のすべてを神の前に投げ出し「あけわたして」しまうことで
やはり神と一体化してしまいたい衝動に駆られる。
(カルト的な宗教にハマる心の動きはこのような感じではないでしょうか。)


それに対して、セレ二ティ・プレイヤーでは
「神様」に対して、自らの存在をゆっくりと静かに
「ゆだねる」ことを勧めているように感じます。
決して神様と一体化したり、
自分をあけわたしてしまったりするのではない。
そのような必死の(しかし無効でしかも危険な)努力をすべて手放し、
不安は不安のまま、等身大の自らもそのまま、ただ受け入れる。

この、「ゆだねる」ことと
「あけわた」してしまうことの差は
とても大きいのですが、
この“違い”は体験を通じてしか
実感できないことのような気がします。

2009.5.23.